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聖フランシスコ・ザビエル教会(マカオ文化遺産 – MC001)

ザビエル教会はコロアンビレッジの海側の一角にあります。
道路側から見ると、記念碑と噴水があり、その奥に静かに佇んでいる事から、絶景の映えスポットになっています。
その記念碑。
1910年に海賊が攻めてきたものの、勇敢に立ち向かったポルトガル人やマカオの人たちが見事に追い返したのを記念して7月13日をその記念日として建てられました。

その後方、建物が“コ”の字型に配列されたように建っているその一番奥に、ザビエル教会があります。

【聖方濟各堂 – ザビエル教会】はフランシスコ・ザビエルの為に造られたと言う言い回しが多く出回っていますが、実際はかなり複雑な歴史を刻んでいます。
ここは元々、1904年にカノサ修道女会が管理していた保育院でした。それを1928年にスペイン人宣教師フランシスコ・ザビエルを記念して、現在の形に改装されました。
日本でも有名なフランシスコ・ザビエルですが、その足跡は多岐にわたります。
1549年に日本でキリスト教の布教を開始する為に日本に行きますが、信者が増大する一方で、この日本での布教が大きな壁に当たり、フランシスコ達宣教師らはこれらの原因を以下に求めました。
- 当時の日本の宗教の流布の状況は仏教の影響が強く、これは中国からの影響を受けている事。その為に中国での布教を優先事項とするよう主張。
- 当時の天皇や幕府の将軍への謁見が叶わず、正式な許可をとりつけられなかった。
- イエズス会の任務としてインドのゴアでの任務があり、それ以上の滞在時間は許されなかった事…
等から、約二年半後の1551年には日本を離れ、一時インドのゴアに赴任。その後、中国へ向かいます。
1552年12月3日、上陸許可を待っていた中国広東省上川島(現在の広東省江門市の沖合の島)で病没。
その遺骨はマラッカを経由してインドゴアへと運ばれましたが、要望がありローマ教王は遺骨の一部を日本へ送る事を許可しました。
上腕部の長さ13cmの遺骨が送られ、1619年、マカオ経由で日本に到着。
しかしその頃の日本は激しいキリスト教への弾圧の真っ最中で、1587年のバテレン追放令や、1614年の江戸幕府の禁教令が既に発布された後であり、1635年頃、ザビエルの遺骨はマカオへと戻ってきました。
マカオに戻ったザビエルの遺骨は当初、聖ポール寺院に運ばれ安置されました。
その後、1835年に聖ポール寺院の火災により、寺院の大半が消失。遺骨は他の日本人隠れキリシタンの方々の遺骨と共に集められ、日本人殉教者の遺骨は聖ポール寺院跡の後方にあった墓地へ。
ザビエルの遺骨は一旦、聖アントニオ教会に運ばれ、一時聖ポール寺院跡地に戻ったのち、カテドラルに安置されたのちに聖ジョセフ修道院へ運ばれました。
その後1865年9月1日、アントニオ・ペレイラとその息子、息子の妻がロンドンにて銀で作られた聖骨箱を寄贈し、それに納骨されました。
ザビエル没後400年の記念行事として1952年にマラッカへ。その後、1965年にアメリカへ渡り、1974年にマカオに戻ります。
そのままコロアンに安置された説と、1978年に安置された説の諸説あり、そこははっきりと断定できません。
ザビエルの遺骨は現在、聖ジョゼフ教会に安置され、長かった旅を終わらせ静かに眠っています。

ザビエル教会の外観はバロック調の堅牢な作りで、天守閣には鐘を備えております。全体を薄い黄色で塗られており、マカオらしい佇まいを見せております。
基本情報
Largo Eduardo Marques
バスで亞馬喇前地から乗車の場合、25,26,50,21A,26A.21A/26Aの場合、コロアンビレッジのロータリーを少し過ぎた先の停留所【路環居民大會堂/C660】下車。それ以外はコロアンビレッジのロータリー内【路環市區・衛生站/C686】下車。
コタイ地区から行く場合、バスは50を除上記と同じ。
乗車するバス停はC.O.D.前の【連貫公路・新濠天地/T375】またはロンドナー先の【連貫公路・倫敦人/T380】、パリジャンの道路反対側の【連貫公路・巴黎人/T379】から乗車。
いずれも下車、徒歩3-5分。
またはライトレールで石排灣(終点)下車。少し歩いて公団内のバス停【和諧廣場・業興大廈/C688/1】または【樂居大馬路・居雅大廈/C691】から乗車。上記の全ての路線が止まります。
