ようこそマカオのweb magazine マカオナビへ。マカオナビはマカオ専門の日本語サイトとして最も古い歴史を持ったweb siteです。あなただけの特別なマカオを見つけてください。
アヘン戦争とマカオの外交戦略 - 連載 – 塩出浩和の近代マカオ地政学 #1

第一回 マカオ – ポルトガルの生き残り戦術

マカオにはローマ・カトリック系の教会・学校・墓地などが多いが、プロテスタント系の諸施設も残っている。1942年に英国植民地香港が成立する前には多くの英米系ミッショナリーもマカオで活動していた。
マカオ半島にはプロテスタント墓地がある。ここを訪れると英国人の墓を確認することができる。1840-42年没の英国海軍将兵のものが多い。アヘン戦争で戦死した人たちだ。
これを見ると、ポルトガルはアヘン戦争時、英国側に立っていたと思われがちだが、実態はもう少し複雑であった。
実はアヘン戦争直前の時期、マカオのポルトガル当局の態度は清朝寄りであった。1839年8月、マカオ当局はマカオ在住英国民にマカオからの退出を求めている。清朝官憲の要求があったほかに、しばしば英国船の乗組員たちの起こすトラブルに悩んでいたという事情もあった。英国人たちはこれを受けて、8月下旬にマカオを離れた。同年9月、英国駐華貿易監督官チャールズ・エリオットから「マカオを(清朝兵から)保護するために軍艦一隻と800か1000人の将兵を提供する用意がある」と提案されたが、ポルトガル・マカオ総督シルベイラ・ピント(Silveira Pinto)は婉曲にこれを断った。9月3日、マカオ総督は英中間での厳正中立を表明し、英国人たちがマカオに戻ることを(表面上)拒否した。欽差大臣林則徐がマカオを視察し、英国人のマカオからの追放を「諭令」したことが総督の判断の主要な要因であった。これに加えて、ポルトガル人がイギリス人を信用していなかったことも判断原因のひとつであったらしい。英国人が防衛のためと称してマカオを占領してしまうのではないかと心配したからである、という。マカオ総督は英国との決定的対立を避けるため実際にはイギリス人がマカオに戻ることを阻止する具体的な措置を採らな
かった。そのため、1840年2月にはエリオットをはじめとする英国政府関係者らはマカオに戻って本格開戦の準備にあたっていた。林則徐によって臨時駐粤海関監督澳門行署に任命された高廉両郡道員易中孚は「イギリス人を速やかにマカオから退出させなければ、ポルトガル人の対中貿易の禁止・華人のマカオからの退去・武力によるイギリス人強制排除を実施する」とポルトガル・マカオ当局に通告した。林は1000人の清朝軍部隊をマカオに隣接する前山に進駐させていた。
一方1840年2月、英国海軍艦艇ヒヤシンス(Hyacinth)号がマカオ在留のイギリス人保護を名目として一時ポルトインテリオール(澳門内港)に入港したが、マカオ当局の抗議を受けて沖合に退去した。しかし、同年6月、英国遠征軍の30隻の艦艇と7000人の兵士が広東沿岸に到着すると、マカオ当局は英国軍が自由にマカオ港湾に入るのを黙認せざるをえなかった。英中間の戦闘はマカオと広東省の境界である関閘付近でも起きている。この間もポルトガル本国政府は、英国遠征軍によるマカオ占領を恐れて、マカオ総督に「厳正中立」を指示し続けていた。1841年1月、エリオットは「清朝政府は既に香港島の英国への割譲を認めた」と宣言し、英国軍は香港島に進駐した。英国全権使節として香港にやってきたヘンリー・ポッティンジャー(Henry Pottinger)は、自由貿易港としての香港の建
設を開始した。マカオのポルトガル人リーダーの一人でセナド(Senado:マカオ市民代表の評議会)の理事ベルナルド・エステバン・カルネイロ(Bernardo Estêvão Carneiro)は「貿易港としてのマカオの消滅危機」を感じ、1841年11月10日「マカオの自由貿易化」について高廉両郡道員易中孚・澳門同知謝牧之・香山県丞張裕とマカオ半島北部の蓮峰廟で話し合った。ポルトガル人はアヘン戦争を利用してマカオの法的地位の改変をねらったわけである。清朝官員は「香港割譲」について北京から知らされていなかったこともあり、会談は不調に終わった。アヘン戦争以後のマカオの地位について葡中交渉が本格的に始まるのは、1842年8月の英中南京条約調印後である。
16-17世紀の「大航海時代」に比べて国力が衰退していたポルトガルは極東の「小さな植民地」を守るため、清朝中国と新興大国イギリスの間で微妙なバランスをとった外交をおこなっていたのである。しかし、アヘン戦争終結後、清朝の弱体化を知ったポルトガル国王は、強硬派のアマラルをマカオ総督に任命し、中国に対する政策を「帝国主義的」なものに転換するのである。
(本記事の元になっている論考は『東亜』2023年1月号に掲載されている拙稿「マカオは今〈73〉長期的視点から葡中関係を考える」である。根拠資料の詳細はこちらを参照のこと。)
塩出浩和
城西国際大学国際人文学部教授 日本人学者として現在マカオに対し最も深い知見を持ち研究を続けている。
扉の写真: George Chinnery (1834). The church and steps of St. Paul, Macao.
Collection of Macao Museum of Art, Macau. https://www.mam.gov.mo/cn/detail/1493
本稿に関わるマカオの重要な施設は、上記のプロテスタント墓地の他に下記の施設がある。(編集部)