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戦中日本地方公務員のマカオ認識 – 名古屋市広東出張所長若松茂氏の報告から 【前編】- 連載 – 塩出浩和の近代マカオ地政学 #2

2025年は中国にとって「抗日勝利80年」であった。マカオでも戦中の「マカオに於ける中国人民の抗日救国」についてさまざまな報告や展示がなされた。日本の地方公務員が当時作成した資料からどんな戦中のマカオ像が浮かび上がるだろうか。
城西国際大学国際人文学部教授 塩出浩和

残っていた名古屋市の資料
名古屋市産業部貿易課の戦中資料をジャーナリストの和仁廉夫氏( https://x.com/loonngarn )が昨年同市公文書館(元の名古屋控訴院)で発見した。名古屋市産業部貿易課は日中戦争中、広東省広州市に「広東出張所」を開設していた。当時は広州市のことを多くの場合「広東市」または単に「広東」と呼んでいた。1937年7月盧溝橋事件(支那事変)を機に日中戦争が本格化し、1938年10月から広州市は日本軍の占領下にあった。
名古屋市広東出張所は広東省・香港・マカオとその周辺地域の経済・社会・政治等の事情を調査し、貿易課に報告していた。わたくしは和仁氏から昭和17年度(1942年度)の出張所報告書類(資料種別B4受入番号経S4ファイル表紙番号14448)を撮影したデータの提供を受け、貴重な資料を読むことができた。名古屋市広東出張所長の若松茂氏が同年2月にマカオに出張した時の「澳門事情調査報告」もこの資料のなかにあった。この報告を読み解き在外地方公務員の眼から見たマカオについて考察したい。尚、珠江河口の対岸に位置する香港のイギリス軍は前年(1941年)12月25日に降伏し、日本は香港に軍政を敷いていた。
報告書の性格と構成
名古屋市産業部貿易課の戦中資料をジャーナリストの和仁廉夫氏が昨年同市公文書館(元の名古屋控訴院)で発見した。名古屋市産業部貿易課は日中戦争中、広東省広州市に「広東出張所」を開設していた。当時は広州市のことを多くの場合「広東市」または単に「広東」と呼んでいた。1937年7月盧溝橋事件(支那事変)を機に日中戦争が本格化し、1938年10月から広州市は日本軍の占領下にあった。
名古屋市広東出張所は広東省・香港・マカオとその周辺地域の経済・社会・政治等の事情を調査し、貿易課に報告していた。わたくしは和仁氏から昭和17年度(1942年度)の出張所報告書類(資料種別B4受入番号経S4ファイル表紙番号14448)を撮影したデータの提供を受け、貴重な資料を読むことができた。名古屋市広東出張所長の若松茂氏が同年2月にマカオに出張した時の「澳門事情調査報告」もこの資料のなかにあった。この報告を読み解き在外地方公務員の眼から見たマカオについて考察したい。尚、珠江河口の対岸に位置する香港のイギリス軍は前年(1941年)12月25日に降伏し、日本は香港に軍政を敷いていた。
報告書の性格と構成
当該報告書の表題は「復命書 依命左記の通り澳門に出張致候に付及復命候」となっている。出張期間は「昭和十七年二月廿日より二月廿六日迄」、出張目的は「最近の澳門事情調査の為」、提出者は「名古屋市産業部広東出張所長 名古屋市主事 若松茂」、宛先は「名古屋市産業部長 中川貞三」、提出日は「昭和十七年三月五日」である。
四百字詰原稿用紙相当の大きさで縦罫線のみの用紙25枚に手書きされている。
構成は次の通り

ポルトガルマカオ政庁の財政状況、食料品の価格、さらに有力華僑個人の氏名などが細かく記載されているが、出典や調査方法の説明はない。おそらく、マカオ政庁の公刊資料を参照したほか、マカオ地元の有力者や事情通から話を聞いたり、市場で実地調査したりしたのであろう。
以下、報告書引用文内の( )は原文にある括弧のまま、[ ]は引用者注である。原文の漢字は、若松氏独自の略字体のほかは原資料の字体をそのまま使用した。
マカオ認識
「一 澳門概観」では「澳門は周知の如く支那に於て最も早く(一八八七年)欧洲人に割譲せられた土地」とされている。16世紀のポルトガル人居住開始・限定的自治の確立からではなく、葡清北京条約で国際法上の地位が確定した段階から説き起こされている。かつては「外国各地との仲継港たり得る地位」にあったが「港湾としての天然條件の不良」・「地域狭少」・「本国葡萄牙国の支援少き事」で香港にその地位を奪われたと説明される。「世界三大賭博公許地の一」・「ダンス阿片酒女の歓楽境」・「海賊密輸業者の逃避所並巣窟」として知られていると語られるが、これは当時日本人の一般的なマカオ認識であった。
1937年の「支那事変」によってマカオに難民が殺到し人口が15万から40-50万になったことが「澳門のダークサイドを甚しく助長し重慶側及援蔣第三国の策動の対象並援蔣物資輸送の一據点」としての重要性を増したと認識している。
一方、日本にとってのマカオは「政治的に[日本]当局の一基地たると共に経済的にも此の地の密輸業者を利用しての支那奥地資源獲得工作の一基地となりその復[ママ]雑怪奇な支那的性格を一入擴大せしむるに至った」としている。また、中立地としてのマカオについては次のように言及している。すなわち「欧洲戰争の勃發並大東亜戰争の勃発は、その本國葡萄牙を唯一の國際的「窓」としての重要地位に押し上ぐると共に東亜の葡領澳門をも東洋に於ける国際的「窓」としての地位を占めさせ、特に大東亜戰は此の地を東亜に於ける唯一の中立地帯たらしめ政治に將又経済に特殊的存在たらしむに至った」という認識である。
マカオの経済状況に対する評価は厳しい。「政治論は暫く措き経済的観点よりしても澳門が従来金融に経済に將又社会的に全面的に依存していた香港の没落と我が海軍の澳門四面の封鎖に因る物資交流の完全な遮断は金融の混乱、食糧難、物價髙を招來しその何れも一歩対策を誤らんか自潰作用を來す危機を蔵し」と表現する。その上で日本に「一切を投げ出し」その「援助に依り細々ながら自存」するかの「関頭に立っている」と断じる。包囲された弱小中立地に対する日本人の感覚が反映されている。
客観的データとしての価値
「二 澳門の人口」では少し古い1927年のマカオ政庁統計を利用し、マカオの人口構成を描いている。1942年当時の最新統計は入手できなかったようだ。それによると、ポルトガル人2%・外国人0.5%・華人97.5%であった。一方で、「支那事変後は約三十万人の難民」が殺到し、「大東亜戰争の勃発は更に香港よりの難民を収容し一時六十万人と称された」とする。その後、人口は疏散し約50万人となったと推定している。
「三 交通概況」の著述は比較的詳細で、当時の物流と旅客移動の様子が具体的にわかる。マカオ半島西側の内港は「水深平均四・五呎[フィート]、船舶の通行部分を浚渫してやうやく一千五百吨[トン]級内航汽船の出入可能の程度」とし、東側の外港では1921年から30エーカーの埋め立て地と防波堤を完成させたが、その後建設が中断し内港と同等の大きさの船までしか停泊できない、としている。マカオからの航路は広州・香港・広州湾の3本が日本の商社によって旅客輸送のみ行われているとされる。
調査時、マカオ広州航路は日本船3隻(雲陽約500トン・南昭約150トン・南和約100トン)が就航していた。1941年12月の日英開戦から1942年2月20日までは軍関係者以外の乗船は禁止されていた。広州からマカオへの渡航が比較的自由なのに対し、マカオから広州への渡航は検疫管理が厳しく予防注射証明書が必要なほか広州港外に24時間停船させられるため、毎日の往来は100人から150人に限られていた、とされる。
マカオ香港航路は、日英開戦前は英・葡・中の8会社によって活発な往復があったが、開戦後は日本客船2隻(白銀・宣陽)のみが就航していた。旅客は香港からマカオのみ乗船でき、香港への乗船は禁止されていた。日本軍政当局の香港住民疏散運動により香港からの乗船が一隻に千人に上ったことに触れている。これは、日本軍による難民マカオ押しつけ政策の具体的記録である。
マカオ広州湾航路の変遷には国際情勢の影響が顕著であったことがうかがえる。「英国と佛国との関係が険悪化するにつれ佛国船が香港を回避し澳門を基点とするに因り新に開設された航路」とされる。この「佛国」はドイツに降伏した後のビシー政権のことであろう。英米の日本資産凍結後さらにこの航路は活況を呈し、30隻のフランス船が往復したという。しかし、フランス船は航路途中で中国側と接触し「援蔣行為」にも及んでいたため、調査当時は日本の2商社(利興洋行と昭和通商)のみがポルトガル船とフランス船をチャーターして毎月5往復しているという。華南とベトナム北部の物流を日本軍はコントロールしたかったのであろう。
漁業や密輸に従事する400隻のジャンクや50-100隻のモーターボートの行動は日本海軍の封鎖によって「封絶」、と表現される。陸路についてもマカオ中山県石岐間に盛んな物流と旅客輸送があったが、日本軍の中山県占領後はほぼ遮断され、一日400-500人の「難民の帰郷者」のみの中山への移動が見られるとする。
金融への高い関心
「四 金融概況」ではまず1937年のマカオ政庁財政に触れている。歳入の約58%が「専売税並鑑札税」となっており、この歳入項目は「阿片税及賭博税」と説明されている。今日のマカオ特区歳入構造と似ている。因みに、2024年のマカオ特区政府歳入に占めるカジノ関連税収の割合は約76%であった。
マカオに於ける通貨の混乱状況が活写されている。Banco Nacional Ultramarino が香港上海銀行に開設している預金を発行準備金として香港ドルの価値に連動したマカオパタカ(報告書では「澳門弗」と表記)を発行する、と説明される。ただし、マカオパタカは納税や官吏給与の支払いなどに使用されるのみで、大口取引は香港ドル、小口取引は「毫銀(旧廣東省二十銭銀貨)」が使われる、という。現在のマカオでも、ほとんどのカジノテーブルはパタカではなく香港ドルで賭けなければならず、小売店・ホテル等では香港ドルが歓迎され、マカオ域内の銀行預金も大口のほとんどは香港ドル建てであるという事実と似ている。今は1.03マカオパタカが1香港ドルという固定レートからの変動を極力抑えるというのがマカオ特区金融当局の政策である。一方現在でも、郵便局や税務署など公的な機関では逆に香港ドルでの支払いは拒否され、マカオパタカを持ってくるよう言われる。
当時のマカオで流通していた多種の貨幣について報告されている。紙幣は、マカオパタカ9種(5セントから100パタカ)、香港ドル6種(1ドルから500ドル)、法幣各種(中央・中国・交通・農民の各行発行)、硬貨は毫銀と香港ドルコインが流通していた。
金融機関の紹介は丁寧である。パタカ発券銀行BNOについては、本店がリスボン、ポルトガルに於ける支店が41、アジアではボンベイなどに支店を擁し、一般銀行業務も担っている。若松氏はもう一つの有力銀行として「廣東銀行澳門支店」について次のように詳しく説明する。すなわち、香港に本店がある宋子文系統の銀行で英国法による設立であること、マカオ政庁に多額の香港ドル保証金を払ってマカオで外為業務をしていたこと、香港陥落後は本店が閉鎖されマカオ支店も開店休業状態であること。
民間金融機関である銭荘と両替店についても具体的に説明している。大規模銭荘である「銀聯」は54軒あり「均信銀業行」という組合を組織し、預金受け入れ・貸し出し・送金に従事している。この組合に加入するためには500香港ドルの保証金が必要だという。通貨の交換は組合を通して行ない、組合は1000パタカにつき2セントの手数料を徴収する。一日の交換額は大洋銀70万元から100万元と推定している。有力銀聯として、萬有・黄珍記・周勝記の3軒を挙げる。
以下、後編へ続く
写真は澳門日報のアーカイブ[ https://www.macaodaily.com/html/2025-08/25/content_1853369.htm ]1943年10月前後の記事から引用。
戦争当事国では無かったポルトガル/マカオも、隣の香港が戦火に巻き込まれていく中、急激に影響を受けて状況が悪化していく様子が報じられています。現在、サプライチェーンの問題が都度取り沙汰されておりますが、それほど貿易の発達していなかったこの時代でさえ、当事国のみならず周辺国にさえ悪影響を及ぼす事になっていた事が見て取れます。日中関係がセンシティブな時期に塩出先生のこの記事の掲載についての可否を暫し考えましたが、今だからこそ如何に戦争が愚かな事かを再考するキッカケになれば、と考え掲載に踏み切りました。[編集部]
1. BNUと略称され、「大西洋銀行」と漢字表記されるポルトガル系銀行。現在は中国銀行澳門支行とともにマカオパタカ紙幣の発券銀行。 2. 滝口太郎「李済深」山田辰雄編『近代中国人名辞典』霞山会、1995年、405-407頁。